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三年前に書いた文化人類学のレポートを読み返したんですが
自分で言うのもなんだけど、なかなか面白かったので
コピペしたいと思います。
ちょっと文章変なとこもあるけど敢えてそのままのっけます。
◆◆◆
身体と知識
外見とアイデンティティ ―「自分」の在り処―
「身体と知識」に関する講義の中で取り上げられていた「自己や人格は外面の中に宿っている」というひとつの考え方について考察してみたいと思う。
講義の中で紹介されていた「アンパンマンの心のありか」について、私は同じようなことを小さい頃に考えていたことがある。私は保育園児時代にアンパンマンが嫌いな子供だった。「頭がとれても平気なのに、濡れただけで元気がなくなるのは変だ」と思っていた。「体がアンパンマンなのか、頭がアンパンマンなのか」。なんだか可愛げの無い子供だった様にも思う。だが、なんにせよそのために「彼らのアイデンティティは外見にある」と聞いた時、私は妙に納得したのである。頭と体が連続して存在するときに初めて、アンパンマンの顔と体は「アンパンマン」という存在になるのか、と。
また、この考え方に興味を持ったもう一つの理由として、外面によってアイデンティティを形づくる効果に興味があったことがある。「イメチェン」では今までと違った自分になることを目的に、髪型や服装を変える。また、マンガやアニメなどのキャラクターの格好をする「コスプレ」では、外見的特徴を真似ることで、実際には存在しない人物像を自己に投影する。外面によって元とは別の自分になる。このこと自体は人間の心理的な効果だと思われるが、何をもって「女の子っぽい」だとか「カッコイイ」「強そう」などと感じるかという観念には文化によって異なるものだろう。また、自分が「女らしい」つもりでも、他者が「女」として扱ってくれなければ「女らしく」いることは出来ない。観念が自己と他者で一致している社会でのみ起こる効果だと考えられる。
講義の中では、スーダンのウドゥク族は肝に精神機能があると考えている事例や、菊池寛の短編小説「形」が取り上げられ、どこまでが「自分の身体」と言えるのか、どこに「自分の心や人格」があるのかという考えは、文化や社会によって異なることが説明されていた。私たちが持つような「心や人格は頭や胸にある」という意識は、決して普遍なものではないのである。
さて、私が日常生活において”異文化”と感じることについて考えてみたいと思う。私がここで話題として取り上げたい事象は「人前で化粧をする若い女性」である。
私がこのことを取り上げようと思った理由には、まず私自身が普段あまり化粧をしないこと、必死に化粧をする若い女性の感覚に興味を抱いたことが挙げられる。電車の中でマスカラを塗れば電車が揺れた途端に目に入る事だってあるだろうし、無理に小さい鏡で化粧をすれば顔全体でアンバランスに化粧をしてしまうことだってある。彼女らの中に「化粧をしない」という選択肢はあり得ない。そこにあるのは単なる「綺麗になりたい」という願望だけなのだろうか。彼女たちは周りの人間にどのような意思を示したいのだろうか。
化粧をするという行為は、綺麗になるためにする、というのが我々の社会での一般的な考え方だ。綺麗な外見から自分の内面まで美しいと思ってもらう、とは言わずとも、少なくとも、「周りを意識している」ことを「周りの人間に意識してもらう」、という意図がある。そして、周りの人間に気を配ることを求められる存在として、女性が化粧をするようになったことも想像に難くない。
そのため「化粧をしている女性」は我々の社会で「その人が一人前のひとりの女性である」というサインになっている。「化粧をしている」という外見に「心配りのできる一人前の女性」というある種の内面が宿っていると言ってもよいだろう。ちなみに冠婚葬祭などのフォーマルな場面で化粧をしない女性は「場違い」になる。小学校の先生でも授業参観日はしっかり化粧をするし、会社で働くOLは日常的に化粧を欠かせない。そこには「綺麗になりたい」という思いよりも「化粧をするのが礼儀だから」という感覚がある。必要な場面で必要なサインを発しないことは無礼に値するのである。
日本では江戸時代まで「お歯黒」という化粧があった。成人の印(江戸時代には既婚婦人あるいは結婚の約束をした印)として、鉄片を酒や茶、酢などに浸して酸化させた液(鉄漿)で歯を黒く染めた化粧である。この化粧は言うまでもなく非常に不気味である。これは現代人だから思う感覚、というわけではなく、「歯黒べったり」と呼ばれる妖怪が描かれていることからも、当時にしても相当インパクトのある化粧だったと推察される。だがそんな化粧にも「成人の印」という意味が備われば、女性たちはせずにいられなかったのである。
化粧をしたがる女子高校生は、「大人の女性」に憧れていると言えるだろう。一人の女性として扱われたい、という思いがある。自意識が強まる青年期においては自然な感覚だろうと思う。濃すぎる化粧―むしろ自分の本来の顔の特徴を覆い隠してしまうような化粧―によって「自分が女である」というアイデンティティを確立しようとしている。校則で禁止されていようと、先生にどんなに注意されようと、頑なに化粧をする彼女らは、化粧を不安定な自我意識のよりどころとしているようにも思う。
「化粧をしないと学校に行けない」という女子高校生がいる。そうでなくとも「すっぴんは人に見せられない」と言う若い女性は多くいるだろう。哲学者、鷲田清一は『じぶん・この不思議な存在』のなかで、
わたしはだれかという問いは、わたしはだれを<非-わたし>として差異化(=差別)することでわたしであり得ているのか、という問いと一体をなしている。 |
と語っている。化粧によって「私」になる女性にとって、化粧をしていない私は「私」ではないのである。ここで女性にとって化粧は「アンパンマンの顔」になる。
しかし、ならばなぜ、最近では電車、教室、ファーストフード店・・・と所かまわず化粧をするのだろうか。
ひとつのとらえ方として、彼女たちの中で「化粧をすること」が「大人の女性」を表すのではなく、「化粧をしないこと」が「子供っぽい」「地味」「ダサい」というマイナスの意味を強く持つようになっているのではないかと思う。電車の中で化粧をするからと言って、そこに居る周りの人間を意識していないわけではない。むしろ「自分が他人に見られている」という意識を持つからこそ、化粧をせずに居られないのだろう。「化粧をしている」という外見よりも、「化粧をする」という行為に彼女らの「自分が女である」という自己意識が潜んでいる。「行為」に内面が宿っているのである。
もちろんここでは「化粧を人前ですること」を「失礼なこと」と感じる感覚が欠如していることが大きい。本来ならば身だしなみは人前で整えるものではない。自分が他人に与えている迷惑、嫌悪感に対して鈍感になっている。「自分が女である」というメッセージを受け取ってほしいと思っているのに、周りの人間のメッセージを受け取ろうとはしていない。もともとは、周りの人間への心配りのアピールだった化粧が、周りの人間への無遠慮、自己中心的な感覚の現れとなっている点に注目したい。
ただ最近では、人前で化粧をする女性に対する人々の嫌悪感も薄れてきたように思う。このことは、人前で化粧をする女性の増加に拍車をかけるかもしれない。しかし同時に「化粧をする行為」に対して「女性らしい」と感じる感覚をも薄れさせるように感じる。化粧という行為と「女性らしさ」という感覚が乖離したら、女性たちは何によって、自分を「女性」と思い、他人に「女性」と思われようとするのだろうか。今後とも注目していたいと思う。
参考文献
鷲田清一 『じぶん・この不思議な存在』 講談社現代新書
多田克己 編 『竹原春泉絵本百物語―桃山人夜話―』 国書刊行会
浜田寿美男 『「私」とは何か』 講談社選書
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結構コレ面白いレポートだと思うんだけど←自画自賛www
内容は女子としてどうかと思うけど(笑)
実際女子高生て何も考えてないしな!w
最近は「女の子らしい」サインとして
「化粧する」よりも「女子力」の方が幅を利かせてますよね。
「女子力」ってなんだよ!って思いますけどね。
「~っぽい」「~らしい」って不思議で面白い感覚ですよね。
まぁ 理屈と感覚を整理して考えなくちゃいかんとは思いますがねー
それっぽいだけじゃどうしようもないですからー。
はい。
ということで
現実逃避はホドホドに。
試験勉強頑張ります。